夏の勝毎花火大会の日になると、あの店の前には恐ろしいほどの人の列ができる。 過去には最長で六時間の待ち時間が生まれたこともあるそうだ。 強い日差しの下でじっと順番を待つ人たちの姿を横目に、車を走らせた記憶がある。 お祭りの熱狂と結びついた六時間という気の遠くなるような数字は、もはや単なる食事の枠を超えて、この街が迎える短い夏の風物詩のようなものかもしれない。
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そうした狂騒の季節が遠ざかると、また静かな日常が戻ってくる。 わたしが一人で暖簾をくぐるのは、きまって平日の午後三時を過ぎた頃だ。 四月のまだ少し冷たい風が、信号待ちの車窓をかすかに揺らしていく。 お昼の喧騒がすっかり引いた静かな店内で、いつものようにロースとバラの盛り合わせを頼む。
運ばれてきたどんぶりを覆う肉には、機械で揃えられたような冷たい均一さはない。 少し不揃いな厚みや端の焦げ目が、なぜか愛おしい。 箸でつまんで口に運ぶと、肉の繊維がすっと自然に噛み切れる。 脂の甘みが口の中に広がるが、決してしつこく残ることはない。 ただ柔らかいだけではない、どんぶりの奥に隠れた丁寧な手仕事の気配がある。
「豚丼を売るのではなく、手間暇を売っている」
先代から大切に引き継がれたというその言葉を、ふと思い出す。 元精肉店ならではの確かな目利きで、筋や余分な脂を一つ一つ手切りで落としていくのだという。 毎日繰り返される地道な仕事の蓄積が、土の奥深くへ張る木の根のように、この一杯を静かに支えている。
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テーブルの端に置かれた小さな壺から、秘伝のタレをひとさじすくう。 つやつやとした白いご飯に少しだけ追いダレをして、お気に入りのにんにく一味を軽く振る。 冬のあいだに何度か買い足したあの見慣れたタレの瓶は、今も自宅の冷蔵庫のドアポケットにある。 夕暮れが早い時期には、肉を焼いて絡めるだけの手軽さにずいぶんと助けられたものだ。
最近ではお店の味をそのまま急速冷凍した真空パックを、通信販売やふるさと納税などで手軽に取り寄せることもできる時代になった。 遠くにいても、お湯で温めるだけでこの香りに戻ってこられる。 それでもやはり、少し不揃いな手切りの肉を、静かな店内でゆっくりと噛みしめる時間が好きだ。 六時間の熱狂も、午後三時の静寂も、この甘辛いタレの前では同じ色をしている。 派手な驚きはないけれど、明日もまた食べたくなるような、地に足のついた味わい。 きれいに空になったどんぶりに、今日も静かに箸を置く。
